頭が、ふわふわする。
何だか心地良い。
温かくて、優しい空気が流れている。
視界に白い霧がかかっているようで状況はよく解らないけど、それもどうでもよくてぼくは微笑みを浮かべた。

…耳元で声が聞こえる。ぼくを呼んでいる。
そして知る、ああそうか、抱きしめられているんだ。
だから温かくて優しい感じがする。
頭を撫でられた。
知ってる。この感じ。
懐かしくて、優しくて、穏やかで、温かくて。


「大好き…」


呟いた言葉が、波紋を投じた。
世界にかかった霧が晴れていく。
徐々に輪郭を露わにしていく、景色と、目の前の人物。

そこに、いたのは……











「な、成歩堂ぉおー!!!」

「や……矢張ィィイ!!!?」

…矢張だった。
ぼくは慌てて辺りを見回す。
当然だが、矢張には抱きしめられていなかった。…良かった。

「あれ、ここ…」

「お前ん家だよ!運んでやったの」

そっか、ぼく倒れたんだったっけ…。
何か、思い出しそうになったんだ。
たった今見た夢も…もう、うすらぼんやりとしか覚えていない。

「ありがとう、もう大丈夫」

「…そっか?」

矢張が心配そうにぼくを見ているけど、別に体調が悪い訳ではないんだ。
ただ胸が騒ぐだけで。
何だったんだろう、さっきの感じ…。

心配してくれる矢張を帰して、ぼくはまたベッドに横になった。
でも眠れなくて、朝まで寝返りを打ち続けた。






翌日の朝。
日曜日、ぼくは事務所を開けずに、ある場所に向かっていた。
電車に暫く揺られて移り変わる景色は、懐かしいものだった。
駅に降りると、何も変わっていない。
子供の時から長年過ごしていた、ぼくの地元。
けれど懐かしさに浸っている気分じゃなくて、歩みを早める。
迷う筈もない、通い慣れた道を歩いて向かうのは、かつての母校。
駅からそう離れてはいない、三階建ての少しボロい校舎が見えてきた。
正門を入ると、六年もたっているのに担任だった先生がいて、少し話した。
噂は聞いてるぞ、なんて言われて。…そんな良いもんじゃないんだけど。

少し校舎を見て回りたいとお願いして、ぼくは懐かしい校舎を茶色いスリッパで歩き始めた。

日曜日だから生徒も殆どいなくて、外からは部活動の声が聞こえてくる。
帰宅部だったぼくらは、あの声を聞きながら三人で帰ったものだ。

リフォームも何にもしてない、昔のままのボロ校舎。
上履きじゃない、カサカサと擦れるスリッパの音だけが少し他人行儀に感じるけど、
まるであの頃に戻ったような気がした。

一階から二階に、階段を上がる。
途中の踊場に設置された大きな鏡に映るぼくは、青いスーツを着込んでいて、あの頃とは違う。
大人びた顔が、少し疲れてる。
昔、この鏡がよくぼくの隣に映していた、彼のせいだ。

とりあえず、ネクタイを直してまた階段を上がる。
二階は、二年生の時に過ごしたフロア。
この階段を上がってきて、ぼくらのクラスは一番奥だった。
チャイムに急かされたり、欠伸をしながらだったり、毎日通った廊下。

あの古びた木目の机も、今は誰かが座ってるんだろう。
窓際のぼくの席。
直ぐ横の窓から見える、桜がスキだった。
爽やかな春風と薄桃色の花びらはいまは無くて、目にはいるのは新緑。
一階はこの時期毛虫が大量発生するから、窓を開けちゃいけないんだったなぁ、なんて下らないことも思い出した。
たまたま二階まで上がってきてた毛虫に、御剣が大騒ぎしてたな。

…ここも、御剣の記憶がある。しっかりと。

来た方とは反対にある、野外の階段で三階に上がった。
ここから見える景色も懐かしいけど、ぼくが来たのはそのためじゃない。

どこから、記憶が間違っているのか?

三年になるときに、ここを一緒に歩いていた記憶がある。
今朝確かめた卒業アルバムの集合写真には、彼はいた。(矢張は休んだから上の方の円に入れられていたが)
アルバムの写真撮影は確か5月。
3年の5月以降に何かがあった筈だ。
それを突き止める事が、何となくいまのぼくには大事な気がする。
よく解らないけど、そうしないといけないと、胸の奥で感じる。

自然に早足になりながら三階の校舎に入った。

三階には図書室がある。御剣はよくそこにいた。
大声で話しかけてよく怒られたっけ。
そこは残念ながら、鍵がかかって開かなかったんだけど、ドアのガラス越しに簡単な仕切りが付いた勉強机が見える。

ぼくが呼ぶと少し驚きながら顔を上げて、それから直ぐに微笑んでくれた姿が鮮明に頭に蘇った。

…また、不思議な感覚を覚える。
ここ最近ふと頭をよぎってはぼくを悩ませる、もやもやした感じ。
この気持ちは、なんなのだろう?
いくら親友とはいえあんな、非人道的なことをした相手に抱くべき苛立ちではない感情。
寧ろ焦燥感に近い、早く、はやく、早くと…
…急かされるような。

一度大きな溜め息を吐き、廊下を歩く。
その脚は自然と屋上へと続く階段へ。
いつも昼を食べていた場所だ。
階段を上がりきり、重たく軋む鉄の扉を開けると、心地良い風が拭く。
その先の景色は変わらないままの、青空と街並み。
それに少しだけ安心して、フェンスに歩み寄る。

「御剣…」

ぼくは、不意に呟いていた。
空は青くて、どこまでも真っ青で、それが良いことなのか、悪い事なのかすら解らない。
両方に左右から呼ばれているような。
この感覚、ああ、何かを思い出しそうだ…
背筋を駆けて、込み上げる。
忘れてきた物を、見つけられそうな…

思わず、一歩踏み出した。
そうして見える景色が、下に見える地上が、

「…っ」

御剣の事を思い出した時と同じように、ぼくをふらつかせた。
反射的に逃れようと体を捻るが脚がもつれてしまい、体が宙に投げ出される。

「――…!」

悪い事に後ろ向きで、頭から、ぼくは転落する。

遥か上空に広がる青空から、
…落ちていく。


その感覚が、一瞬で…
眠っていた記憶を呼び起こす。
一気に流れ込んできた、いや、自分の内から突き抜けてきたそれは鮮烈に、いっそ痛烈に脳を刺して、

ぼくは呆然としたまま、ただ青い空を眺めていた。