「キミは、そう…さながらシュレーディンガーの猫と言った所だ」
携帯の向こう側から聞こえる声には、表情が無かった。
彼の目の前には、開かれた一つの箱がある。
それには時計が付いていて、カチカチと時間を刻んでいる。
内部には、色とりどりの複雑な配線。
幾つかは鋏で切られ、残りも少ないようだ。
…言わずもがな、それは時限式の爆弾である。
「…シュレーディンガー…?」
尋ねるように語尾を上げたのは、爆弾の前で鋏を握る男。
反対の手には棒状の携帯電話を握り締めている。
「くくっ…ご存知ない、か…」
電話の相手は小馬鹿にしたように笑う。
それに苛立ったのか、顔を歪めるが声には出さない。
それは電話の相手が男の生殺与奪の権利を握るからに他ならない。
「それは、この仕打ちに何か関係があるのか…?」
「あると言えばある、無いと言えば無いな…」
男のいう「この仕打ち」が指すところは即ち、爆弾が目の前にある現状である。
更にその場所が問題だった。
「どうした、威勢が悪くなったな…酸素が減ってきたか…?仕方がないことだ、その狭い空間ではな…」
閉じ込められた男は、黙って声を聞いている。
知っているのだ、電話の相手が話を途中で遮られるのを嫌うことを。
「だからキミはシュレーディンガーの猫なのだよ。エレベーターという箱に閉じ込められて量子の気紛れで二分の一度死ぬ、哀れな猫…」
猫に例えられた男は青いスーツをぎゅっと握る。
エレベーターに閉じ込められてから結構な時間が経つ。
まだ爆弾が爆発するまでに時間はあるが、気が気ではない筈だ。
「もっとも、コペンハーゲン派の解釈では、だがな。新しい解釈では重ね合わせという理論は成立しない。キミは死ぬか、生きるかどちらかしか選べない」
「…意味が解らないよ」
「…量子力学に関する実験だ。量子の振る舞いにより確率的に毒ガスが発生する箱に猫を入れる。次にその箱を開けたとき、猫は生きているか、死んでいるかだろう?ところが、開けるまでは内部の様子は解らない。これはつまり、確かめるまでは猫の生死の確率は半々であると言えるのだよ」
「…それが二分の一度死ぬってことなのか?」
「ああ、量子は1でも0でもなく、0.5といわれているからな」
青いスーツの男がその理論を理解したかどうかは解らないが、相手の言いたいことは大体解ったようだった。
「確かに、二分の一だよ」
そう呟いた彼の鋏の先。爆弾の配線は残り二本なのだ。
「…そろそろ教えてよ、御剣。どっちなんだ…?」
「…それは教えられないな」
ありがちなシチュエーションだが。
その線は青と赤。単に分かり易い色分けが目的なのか、静脈と動脈をイメージしているのか、何故相場が決まっているのかは解らないが。
御剣、これを仕掛けた彼に限って言えば、その二色に求めた意味は明らかだった。
「…しかしそれは本当に二分の一だと思うか?成歩堂。私はこうしてキミを惑わす。100%にするのも0%にする事も、私には可能だ」
自分と、青スーツの彼に見立てている。
その二本を前に、彼が悩むであろう事を知って。
「…切るならば、赤だろうな。」
「…どうして?」
心理誘導を宣言した直後のその言葉に、成歩堂は僅かに身構える。仕方がない事だろう。
「…トカゲの尻尾は切っておくべきなのだ。いや、猫とて尻尾を切っても死にはしない。」
「…何が言いたいんだよ」
「つまり、その色はキミにとっての重荷ということだよ」
あからさまに、赤を切れと言っている。
自分に見立てられている、それを。
声は心なしか憂いを帯びている。
もっとも、彼自身は気付いていないのかもしれない。
「さぁ、切りたまえ。それさえなくなれば、キミは自由だ」
その言葉に、嫌な予感がした。
いや、確信に近い。
「っ…お前いまどこに居るんだよッ!?」
「…自宅だ」
僅かに開いた間が、証明している。
彼は自宅には居ない。
「…空港だろ」
成歩堂の声が荒げられる。
「またぼくの前から居なくなるつもりなんだろ!!」
電話の向こうの彼が僅かに息を飲むのが聞こえた。
「重荷!?ふざけるなよ、行かせるわけ無いだろう!こんな線に全てを託すなんて、馬鹿じゃないのか」
そう、言いながら。
迷い無く、赤い線を断ち切る。
爆発は起きなかった。
「こんなもの、切ったから何だって言うんだよ。ぼくがお前を手放す?そんな訳ないだろう!」
ガコン、と音を立てて、ちょうどエレベーターが復旧した。扉が開く。
「嫌、嫌だ…来ないでくれ」
「黙って待ってろ!」
電話の向こうの声は泣いているように聞こえた。
構わず叫んで電話を切り、消耗した体力を気にかけもせずに成歩堂は走り出した。
ぼくはお前のためなら、全ての確率を100%にしてみせる。
量子にすら動かすことは出来ない、ぼくは自分自身で決める。
未だに狭く暗い箱の中で、気紛れな確率に怯えている猫を、必ず救い出す。そう、決めたから。
END
シュレーディンガー、間違ってたらゴメンナサイ…物理苦手です。
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