7月7日、午後4時頃。

検事局の非常階段にはコツコツと革靴の音が響く。
かなり急いでいるようで、その足音はどんどんとテンポを速めていく。
そしてそれを奏でている張本人といえば、端正な顔立ちを歪めて苛立ちを露わにしていた。

「…この忙しい時に…」

忌々しげに呟くと、その足取りはもはや走っていると表現した方が良いスピードになっていた。

12階から一気に下り、1階にたどり着いた彼は非常階段の重いドアを開ける。
流石に息も絶え絶えだったが、これからのことを考えてか深呼吸をして僅かばかり呼吸を整えた。

エントランスへと続く短い廊下に出ると、その異変は直ぐに目に飛び込んできた。

「…何だ、これは…」

思わず脚を止めた。
いつもは整然としているエントランス。
しかし今日は違った。
色とりどり、派手に飾り付けられているのである。
それは折り紙で作ったホームパーティーのようなデコレーションで、よく見れば無数の笹が飾ってある。
そこでようやく思い至った御剣の視界に入るのは、一際派手なオレンジ色。
此処に呼び出した張本人である、厳徒海慈だった。
思考が停止していた御剣だったが、彼がいるホールの真ん中まで歩み寄った。
静まり返った局内に、ぱんぱんと乾いた音が響き渡る。
厳徒が黒手袋の手を叩く音だ。

「やぁ。御剣ちゃん、早かったね」

「えぇ、まぁ(ダッシュで来たからな)」

「エレベーター使わなかったのにねぇ」

「えぇ、まぁ(知っているなら急いで来いと言うな)」

「今日は何の日か知ってるかな?」

「えぇ、まぁ(これを目にして解らないほど日本文化に疎くはない)」

ひたすら頭の中で突っ込む御剣に、厳徒は機嫌良さげに笑う。
そして笹に吊されているのと同じ短冊を差し出してきた。

「ハイ、何か書いてよ。お願い事さ」

「願い事…ですか」

一応受け取るには受け取った彼であったが、何か言いたげにその短冊を見ている。
顔を上げて厳徒に視線を移すと、一度小さく息を吐いた。

「結構です」

「んっ?」

突き返されてキョトンとした表情を浮かべる彼に一礼して、御剣は変わらない声のトーンで言う。

「願い事は他人に叶えて貰うものではないと、思うので」

「ああ…御剣ちゃんらしいねぇ!お星様に任せてはおけないってね」

「はい」

「ってことはさ、何かあるんだ?お願い」

「…願いというか目標ならば絶えず己の中にありますが」

「堅苦しいねぇ。イベントくらい気を抜けばイイのに」

ケラケラと軽く笑い飛ばしながら短冊を受け取って、厳徒は脚を出入り口に向ける。
あなたはいつも気を抜きすぎではないか…と思いながら御剣は彼の後を着いていく。
この男が何も無く帰る筈はないのだから、ついてこいというのだろう。
自動ドアを二枚抜けると生暖かい風が吹き込んで、軽く眉を顰めた御剣。
厳徒はそれを振り返り、空を見上げた。

「まだ明るいね」

ビルの隙間から見える空はオレンジ色がかって、彼の探すモノは見当たらないようだった。
御剣は空の方に視線をやらず、厳徒の胸元のアイアンクロスを興味なさげに見つめている。

「今日は見えないでしょう」

「あれ、そう?」

「ええ、今年は月齢が悪いようですから」

彼らの頭上の月はほぼ満月に近く、確かによほど明るい星以外は確認できないだろう。
なんだ。とさほど残念でも無さそうに再び歩き出す厳徒は、エントランスに戻っていく。

「んー、雨も降りそうだし」

「この時期、通り雨が多いですし」

「カワイソウにね」

二色のタイルをカツカツと鳴らし、丸い柱を囲むように並べられたソファーに腰掛ける。
追って正面に立った御剣は、思考を巡らせるように一瞬だけ瞳を閉じた。

「ああ…、七夕伝説ですか」

「一年一回しか会えないっていうのに、カワイソウだよね?」

言いながら、座れというように自らの横をぽんぽんと叩かれ、逆らわず隣に腰掛ける。

「御剣ちゃんは彼らをどう思うかな?」

「どう、とは」

彼らとはおそらく、織女と牽牛の事だろう。
どうと聞かれても、その物語について対した感想も持っていなかった御剣は、どうしたものかと僅かに首を傾げた。

「例えば、織女の羽衣を奪ってまで結ばれた牽牛のコトとか」

「…窃盗罪ですね」

御剣の答えに膝を叩きながら笑い、次の質問を投げかける。

「結婚したら働かなくなっちゃって引き離されたコトとか」

「自業自得ではないですか」

「手厳しいねぇ…」

全く表情を変えないままの返答はまさに生真面目な彼らしく、感情を挟む余地は一切無いようだ。

「羽衣を無くしてもう何処へも行けないコトに絶望したらならば、彼女は彼に縋るしか無かったんじゃないかな」

レンズ越しの瞳が細められて目の前の彼を捉えると、口元にわずかな笑みを浮かべた。
対する銀の瞳はかち合うことはなく、エアコンの風でサラサラと揺れる笹の葉を目に映しているだけで。

「…飛べなくても行ける場所はあるでしょう。それなのに歩き出さなかった彼女の過失だと」

「天界には二度と帰れないのに何処に行くって言うの?」

「可能性が無い訳ではない。現に数年後には迎えが来ているのだし」

御剣はこんな下らない議論を戦わせている場合ではないとばかりに時計を見たが、彼は逆にやりとりを楽しんでいるようだ。

「逆にさ。織女は気付いてたんじゃないのかな?羽衣を盗んだのが彼だって。でもその愛情に絆されちゃったんだ」

「バカな…」

「レンアイってバカなモノだから」

愛情に絆される、その一言でふいに頭をよぎったモノに、御剣は溜め息を吐いた。
本当にバカバカしい。

「…あなたはそのような話をしに来たのか…」

「ん?ああ…そうだよ。御剣ちゃん、最近有罪判決を取らないからさ」

「は…?」

全く脈絡無く放たれた言葉に御剣は少しばかり驚いた顔をする。
今までずっと無表情だった御剣の奇をてらって彼は嬉しそうに笑う。

「…何故いきなりそのような…」

「解らないかなぁ?」

全く気にしていないといえば嘘になる、ここ最近攻められ続けた一点を突かれて曇る表情。

「“完璧”なキミの羽衣を奪ったのは…だぁれ?」

楽しそうな悪意の笑みが告げる言葉が何を指しているのか、御剣は漸く理解出来た。
織女に例えられるのが自分ならば、牽牛に例えられているのは誰なのか。
そして織女から羽衣を奪うと、どんな結末を迎えるのか。

何も答えられずにいると、厳徒はその黒い手袋で御剣の銀髪を梳く。

「哀れな姫はもう、綺麗な反物の作り方を忘れちゃったのかな」

詰るような優しい声で告げられる言葉が彼の本心なのかは解らなかった。
実際に敗訴を続けるのは痛手ではあるのだろうが、御剣の表情を楽しんでいるというのが彼の目的であるのかもしれない。
冷淡な表情を崩すのを、ある人物が残した矜持を揺るがすのを。

御剣が立ち上がる。

「…私は」

僅かな間を置いてからの声は、予想に反して静かだった。
そして振り返った御剣の瞳は、厳徒を捉え…笑った。

「先ほど言った筈です。翼が奪われようと、私はこの足で走る」


直前まで曇っていた瞳は既に、決してその歩みを止めない意思を映し出していた。
もしかすると、今まで心の中で思っていたことを今初めて口に出したのかもしれない。
そして改めて己の想いを知り、決意を新たにしたのだろうか…そう思わせる強い光。

御剣はそのまま一礼して、踵を返した。


“完璧”を志したあの“羽衣”を無くしても、彼は自らの脚で、力の限り走り続けると、そう言った。
標を無くし、もはやあるのはその心のみなのだ。
ならば最早、彼を織女になぞらえたのは失策だったと笑わざるを得ない。

「…頑張ってね?御剣ちゃん」

非常階段の扉に消える背中を見送り、厳徒は短冊を手にする。
御剣に突き返されたそれだった。








同日、夜9時。
御剣は仕事を終わらせて、成歩堂の事務所へ向かう。
絶対来て下さいね、と前々から誘われていたのだ。真宵と春美の笑顔には何故か勝てない御剣だった。
玄関の扉をノックすると、すぐに内側から開かれた。

「いらっしゃいませ!みつるぎ検事さま」

「あ、来てくれたんですね!」

嬉しそうに出迎える彼女らの背後に見えるのは、どうやって運び込んだのだろうかと疑いたくなるような巨大な笹。
色とりどりに飾られたそれの下のソファーに突っ伏す青い塊が見えて、直ぐに謎は解けた。
思わずクスッと笑うと、塊が顔を上げた。

「…笑うなよ。大変だったんだから」

「相変わらず…暇な事務所だな」

軽口を叩くと、彼はようやく体を起こした。
さして怒った風でもなく、わざと拗ねたような表情を浮かべる。

「さぁ!みつるぎ検事、夕食の準備が出来てますよ」

真宵が元気良く御剣の腕を掴んで成歩堂の隣に座らせ、その正面に春美と一緒に座った。
確かにテーブルには色とりどりの食事が並んでいた。

…そう、色とりどりの…

「これは…何だね?」

「どれ?」

「このサラダに載っているギザギザの…」

「え!金平糖知らないんですか!?」

「……!!!」

顔を真っ青にする御剣に、何故かニヤニヤしている成歩堂。
彼は既に諦めているのかも知れなかった。

「な、何故金平糖を載せたッ!!?」

「七夕だから!」

少女たちは悪気も屈託もない笑顔を浮かべており、もはや文句も言えずうなだれる御剣。
しかしその横の彼は箸を取る。

「た、食べるのか…?」

少女たちに聞こえないよう小声で囁く声に、彼はウインクして返した。

「袖にでも隠せば良いだろ」

そして頂きますを言うと、食べはじめてしまった。
仕方なく御剣も箸を取る。

「い、頂きます…」

しかし彼は驚くほど不器用であり、金平糖だけを除く作業は不可能だった。

「(ドレッシングが辛くも甘いッ…しかもシャリシャリする…噛んだ瞬間に砂糖が弾けて…みずみずしいレタスと相まって……ッ)」

「おいしい?みつるぎ検事!」

「あ、ああ…」







このようにして悪夢の夕食は終わり、二人は里に帰って行った。
今度は御剣が突っ伏す番で、成歩堂は苦笑しながら彼を膝枕していた。

「…お疲れ様」

「ああ…気にするな。彼女らに悪気はないのだし」

「そうだね。短冊に“胃が痛くなりませんように”って書いておいたら?」

そう言いながら渡されたのは、本日2枚目の短冊。
厳徒の時と同じ言葉をかけようかとも思ったが、少しばかり気になって押し止めた。
ごろんと体を反転させ彼を見上げると、その髪に手を伸ばしながら尋ねた。

「キミは…何か書いたのか?」

「ん…、書いたよ。ほら」

言いながら、吊されている一枚の紙を引っ張った。
よくしなる笹の枝は御剣の眼前にその答えを与える。


『幸せになる』


綺麗ともいえないが丁寧な字で綴ってあった。
僅かばかり違和感を覚え、御剣は黒い目を見た。

「幸せになれますように…ではなくて?」

その問いに成歩堂はキョトンとして見下ろした。
手を離すと笹はもとあった場所へ戻る。
直後に彼は笑った。

「だって、それじゃただの願いじゃないか」

「…?願いごとを書くのではないのか?」

「目標として書くには書くけどさ。ぼくは叶えるから、自分の力で絶対に」

その言葉とその笑顔に、きしりと胸が軋む。
彼はその信念を持って、御剣を絶望の淵から掬い上げた。
それを思い出してか、納得せざるを得ない御剣は、黙って短冊を受け取る。

「…書いても良いのか?」

「え?」

「私も、キミと同じ願いを…」

少しばかり困った表情で見上げる彼は、何度か視線をさまよわせた後に彼を見つめた。
成歩堂は数度まばたきをして、その不器用さに微笑み、髪を撫でた。

「勿論だよ…。きみが、叶える努力をするのなら、ね」

そのまま、短冊を持つ指先にキスを落とす。

「…幸せになるんだよ、ぼくらは…」

御剣は彼に柔らかな笑みを返し、首に腕を回して身を起こす。
御剣は彼の唇に触れるだけのキスをし、ぎゅっと抱き付いた。
それに答え抱き締め返された体温が心地いい。

御剣は、先ほどの厳徒との会話を思い出していた。


…彼は私を『羽衣を奪われた織女』と言った。
しかしそれは間違っている。
成歩堂が私から奪っていったのは悪夢。
…そして、代わりに足を与えたのだ。
この地を自らの足で走れと、共に歩こう、と。


「…ありがとう。成歩堂」

「え、いきなりどうしたんだ?」

「…秘密だ」

悪戯っぽく笑った彼をもう一度抱き締める。




検事局のエントランスに揺れる笹の葉にかけられなかった短冊が一枚。
それを手にする厳徒が空を見上げると、レンズを水滴が濡らす。
ぽつりぽつりと落ちて、だんだん強くなりアスファルトを染めていく雨粒。

「催涙雨…か…」

天の川の水量が増し、鵲は橋を渡せない。
二人の一年一度の逢瀬はこれほど呆気なく無かったことにされてしまう。
呟いた声はどことなく憂いを帯びていたが、直ぐに彼はいつもの笑みを浮かべた。

「…成歩堂ちゃんなら、泳いででも渡るかなぁ」

願いは自分で叶えるタイプだよね、あの子。そう笑った。


END