バレンタインデーから丁度1ヶ月が経った。
すっかり季節は春めく、3月14日の朝。
今日、ホワイトデーは御剣怜侍にとっての大切な日であった。
彼は赤い大きな花束を抱えて、自宅のドアを開ける。
玄関で靴を脱ぎ、鍵を掛けて踏み入れた一人暮らしの部屋は、いつも通り静かだ。
もう何年も、慣れているはずの静寂が刺すようだと感じるようになったのは、一週間前。
彼が恋人を失った日。
スリッパの音をさせながら廊下を歩き、寝室に入る。
扉を開けた途端に立ち込める甘い香り、ベッドの周りに散らばっているのはおびただしい数のチョコレートだった。
彼がこの一週間、恋人のかわりを探すかのように集めた、思い付く限りのビターチョコレートが床を埋め尽くす。
いかにも高級そうなものからコンビニで買える板チョコレートまで、種類も様々。
だがどれひとつとして、恋人を思い出せる味ではなかったらしく、ひとかけらずつしか減ってはいなかった。
チョコレートなどどれも同じ香りだと思っていた御剣だが、成歩堂の香りだけは、いや、味までも正確に鮮明に思い出せる。
そしてその度に彼の姿を脳裏に浮かべては胸を締め付けるような思いに囚われるのだ。
まるで麻薬中毒者のようだと自嘲しても、勝手に彼を求める心を止めることは出来なかった。
黒いパッケージの散らばる床を、チョコがばりばりと音を立てて砕けるのも気にせず歩く御剣。
壁に備え付けられたフックには、ハンガーにかかった青いスーツ。
恋人がここに来たときに着ていたものだ。
御剣は朝日に照らされた鮮やかな青を眺めてベッドに腰掛け、瞳を細めた。
彼の象徴たるその色はいつでも優しかったのを思い出す。
…彼は自ら望んで自分の一部になったのだと自分に言い聞かせなければ、きっと泣いてしまう。
少しは強くなれたのかと思っていたが、小学生の時と何も変わっていない事実に、頭を抑えた。
自分が強くなったと感じたのは彼がいてくれたからなのだと気付かされ、自己嫌悪が黒く心を蝕んでいく。
ぎし、とベッドが軋む音を聞きながら、手にした花束を自らの正面の床に置いた。
ちょうど彼のスーツの真ん前。
青いリボンが掛けられ上品に纏められた花束は、死者に対する弔いというよりは単なるプレゼントのように見えた。
バレンタインデーに全てをくれた彼に対するお返しなのだろう。
彼を思っているのか、呆然と焦点の合わない瞳に青色を映す。
無意識に薄く開かれた唇から洩れそうになる悔やみ。
何故、と責めてしまいそうになるが、今更何を言っても、と首を左右に振り。
ただその花束に思いを託し、消えそうな笑みを浮かべた。
その日、警察庁は騒然としていた。
とある事件の犯人と名乗る人間が自主して来たのだ。
しかもそれが、検事局の天才と誉れ高い御剣怜侍だったというのだから当然である。
彼は捜索願いの出されている弁護士・成歩堂龍一を殺害したと供述しているという。
一時間前、自宅を出た御剣は危なげに赤いスポーツカーを運転し、少し遅刻して警察庁に現れた。
いつもは誰より早く来ている御剣の遅い出勤で、視線は自然と集まる。
そんな様子に気付いているのかいないのか、いつもの無表情で歩みを進める。
たどり着いたのは糸鋸刑事の机の前だった。
着席していた彼は少しきょとんとしながら上司を見上げ、どうしたんッスか、と尋ねる。
御剣は一度瞬きをするとすぐに言葉をかける。
「成歩堂龍一が失踪した件を担当しているのは誰だ?」
「え…あ、自分ッス」
「その事件の犯人は私だ」
「そうッスか…、って……は?」
「言い方を変えよう、成歩堂龍一を殺害したのは私だ」
そして現在小さな取り調べ室には、御剣と糸鋸刑事が机を挟んで座っている。
糸鋸は、何となく他の人間を介在させるべきではないと察して無理やり追い出した為、ブラインドとガラスの向こうには野次馬やらの人間がひしめいている。
御剣にとっては誰が居ようと居まいと、早く逮捕して欲しいというのが願いだった。
「検事、話してくれなきゃ解らないッス」
そう言ってみても、さきほどから返ってくるのは沈黙のみ。
御剣は「自分が彼を殺した」以外の言葉を話さなかった。
証拠がないと言われても、成歩堂はチョコレートだったのだ。殺害の痕跡など何も残っている訳がない。
自主であれ物的証拠は必要なのだ。
「動機は?検事が彼を憎む理由なんか無い筈ッスよ!」
その問いに、御剣が僅かに顔を上げた。
停止しそうな頭で言葉を探し、からからに渇いて掠れた声で呟いた。
「先週の公判を…覚えているか…?」
糸鋸は一瞬斜め上を見上げ記憶を辿り、直ぐに苦々しい表情を浮かべた。
「勿論ッス。それが…?」
「…ならば、彼女の動機も覚えているな?」
巡りの悪い糸鋸の頭でも、その言葉の意味するところはすぐに理解できた。
彼女は愛ゆえに恋人を殺害した。
「動機は恨みとは限らない、のだよ。」
どこか遠くを見ながらそう告げた御剣に、糸鋸は動揺を隠せない。
「検事は成歩堂弁護士を…?」
僅かな間の後に頷く。
防音が整っていなければ、取り調べ室の外は騒ぎになっていただろう。
…この際御剣が彼を愛していた事はいいとして、今までどこか「何か事情があるのではないか」と思っていた糸鋸だが、その告白で犯行の真実味が増してしまった。
「な、な、何でそんな…」
「彼が望んだからだ」
きっぱりと言い切った御剣は長い睫毛を揺らしてゆっくりと瞬きをした。
表情はいつもと変わらないように見えるが、触れただけで壊れそうに見える。
「…許されない事をした。いや、許されるべきではない。彼の事を思う全ての人間に、癒える事のない傷を与えるのだから」
誰よりも御剣を信頼している糸鋸は、その主張に歯を噛みしめて涙を零す。
反対に御剣は呆けたような表情を浮かべ、涙すら流さなかった。
「糸鋸刑事…はやく、手錠をかけてくれ。」
そう言った時だった。
部屋にノックが響く。
2人が顔を上げると、外にいた刑事が遠慮がちにドアを開いた。
先ほど全ての人間を追い払った糸鋸に怯えているのか震えぎみの声で言う。
「み、御剣検事を釈放します…」
その発言に、驚いた声を上げたのは御剣。
「何を…!私が殺害したのだと先ほどから言っているだろう!」
「それが、で、出て来まして…」
「出て…?何が…」
言いかけた御剣は言葉を止めた。
止めたというよりは止まった。
ドアに塞がっていた刑事達が退いた向こうにあった景色を目の当たりにして。
青いスーツに、ツンツンした黒髪。
呆然とする糸鋸と御剣に少しずつ近付いてきて、ドアを入る。至極当然そうに、何も無かったかのように笑顔で。
「やぁ、御剣。ちょっと太った?」
声も顔も体も、「人間の」成歩堂龍一が立っていた。
「な、あ、あ、あ、アンタ…」
「お久しぶりです、イトノコさん」
「死んだんじゃ無かったッスか!?」
「失礼な、生きてますよ、ほら」
これは夢か幻かと呆然とする御剣の目の前では、自分が食べてしまった筈の彼が
存在している。
「いやぁ、フェリーに乗ってたらうっかり落ちちゃって、
運良く近くの島に流れついたは良いけど記憶喪失になってて…
なんか目覚めてそうそうピアノ弾きたいって言ったみたいでピアノマンなんて呼ばれてたんですよ?
来世はピアニストですかね?
で、記憶が戻ったのが一昨日。
慌てて戻ってきてみたら御剣が自主したって言うじゃないですか。
忙しくて行けないからってフェリーのチケットくれたのが御剣だから気にしてたんでしょう、多分」
成歩堂は流れるような口から出任せを笑顔で垂れ流すと、座っていた御剣の手を
掴んだ。
「って訳なんで」
御剣が驚いて彼を見上げると、アイコンタクトをするようにウインクする。
「御剣は借りていきますねっ」
それと同時に腕を強く引かれ、反射的に立ち上がると成歩堂はそのまま走り出し
た。
混乱して頭の回らない御剣は腕を引かれるままに彼に着いて行った。
五分ほど走り公園に入ったところでようやく、成歩堂は脚を止めた。
はーはーと息を吐きながらベンチに座り込む。
御剣も肩で息をしつつ、彼を見た。
「キミは…なんで…、生きて…」
当然の疑問を投げかけると、彼は苦しそうながらも笑った。
「死ぬわけ、ナイだろ」
「な…」
「いや、確かに死んでたよ!今日まではね…!」
成歩堂はスーツのボタンを外し、ネクタイを緩めながら尚も笑う。
「実はぼくがチョコになっちゃったの、魔法だったんだよ」
…魔法。現実であまり聞かない類の言葉に、御剣はぽかんと口を開いた。
突然起こった非現実的な現実はなんとか受け止めた御剣だったが、魔法なんていうものは信じていないタイプだった。
成歩堂の主張をまとめると、こうだ。
御剣にあげる為の等身大チョコレートを作っている途中に、「何故御剣はぼくにスキだと言ってくれないのか」とぼやいたところ、チョコレートの聖霊が登場。
恋人が素直になれる魔法をかけると言って、成歩堂をほぼ完成していた等身大チョコレートにしてしまった。
ちなみに「恋人からの素直な言葉をホワイトデーまでに貰わなければ完全消滅、貰えれば元通りの体」というあまりにハイリスクローリターンな条件だった…らしい。
「いやぁ、まさか御剣が1ヶ月愛の言葉をくれないとは流石に思わなかったよ…」
結果オーライかなとおかしそうに言う既にワイシャツ姿の成歩堂、まだ信じられないように呆然とする赤いスーツを脱ぐことも忘れている御剣。
だが、成歩堂の言葉にひっかかる部分があったのか、ようやく少し正気を取り戻した。
「…私は愛の言葉など、言った覚えは…無いが」
確かに何度か、言おうとはした。
だが、虚しさが邪魔をして何も言えないままだったのだ。
それならば「魔法」が解ける筈はなかったのではないか。
その問いに、待ってましたとばかりに笑む青い彼。
「直接口にしなくても良いんだよ」
だいぶ呼吸も整い、立ったまま見下ろしている御剣は、その言葉だけで全てを理解したようだ。
言わんとしている言葉が伝わったことに気付いてか、彼は嬉しげに頷く。
「きみの「愛情」確かに受け取ったよ」
そう言って口元に寄せたのは、赤い一枚の花弁。
無論、今日の朝、御剣が贈った花束のうちの一枚。
御剣の思いを全て乗せた、真っ赤な薔薇の花束だったのだ。
「愛の「言葉」、「花言葉」でもOKだったみたいだね」
御剣らしいねと見上げてくる瞳を細める彼。
御剣はきゅっと唇を噤み、衝動的に成歩堂に抱き付いた。
「み、御剣ッ!?」
ここ公園だよ、と告げようとしたが、それは声にならなかった。
成歩堂の唇に御剣の唇が押し当てられたせいだ。
「み、み、みっ…」
唇は直ぐに解放されたが、ベンチに座った成歩堂はのし掛かるように抱きつかれたままだ。
焦りながら声をかけるが、御剣の吐息に混じる嗚咽に、背中に腕を回し返した。
ぽんぽんとあやすように背を撫でると、彼の唇が耳元に寄せられる。
そしてギリギリ聞き取れるかの声で告げられた。
「…愛してる、成歩堂」
それは先人が花に託し、付けた言葉ではなく御剣自身の内から湧き上がった思い。
「…素敵なお返しありがとう、御剣…」
言って頬にキスを落とすと、御剣はなんとか泣き止み、小さな笑顔を見せた。
「キミが居なくなって、チョコレートには麻薬性があると、気付いた」
「あ…、だろうね。びっくりしたよ」
目覚めた瞬間の光景を思い出し苦笑いをする。
御剣の部屋はチョコレートが散らばり放題でそれは無残な状態だった。
「…でも違ったのだよ」
落ち着いてきた御剣は、流石に彼の上から退き、隣に座り直した。
そして赤く腫れてしまった目をさまよわせた後、彼の黒い瞳を見つめる。
きょとんと見つめ返す彼の手に指を絡め、最高の笑顔を見せた。
「私がチョコレート以上に依存していたのは、キミなのだよ」
どんなに華やかな香りも、舌に広がる苦味と酸味を含んだ甘味も。
…恋人には適わないと、知った。
『good bye,chocolate kiss.』
さようなら、チョコレートのキミ。
そして再び手にしたのは、もっと甘い甘いモノ。
END
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