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言わずと知れたバレンタイン。
我らが成歩堂龍一も、そのイベントに参加すべくここ3日間準備を進めて来た。
それが、当日の朝にこんな事になろうとは誰が予測出来たであろうか。
成歩堂は自宅の鏡の前でうずくまって呻いていた。
あまりにショッキング過ぎる光景を目の当たりにしてしまったからである。
鏡に映る姿は確かに彼の物ではあるのだが…茶色い。全てが茶色いのだ。
舐めてみた。…甘い。
神の悪戯か、はたまた只の嫌がらせか…
成歩堂龍一はチョコレートになってしまったのである。
『み…みみみつるぎ…』
「どうしたのだ…こんな朝から」
困り果てた彼は、無意識に御剣怜侍に電話をかけていた。
まだ6時頃だったので、御剣は不機嫌そうだが仕方がない。
『御剣、御剣助けてよぉぉ…ぼくチョコレートになっちゃったよぉお』
「………はぁ?」
御剣からは当然の反応が返ってきた。しかし成歩堂の声が真に迫っていたので、切ることはしなかった。
黙って次の言葉を待っている。
『今朝起きたら…チョコになってたんだ…ぼく…うぅ』
ボロボロと流す涙さえ甘くて、成歩堂は余計に悲しくなってしゃくりあげた。
それを聞いていた御剣はただ事ではないと感じ、待っていたまえ、と告げて直ぐに彼のもとに向かった。
チョコ云々を信じていた訳ではない、ただ彼の様子がおかしかったから。それだけだ。
…しかし、着いてみると彼はまさにチョコレートだった。
綺麗にコーティングされているのかと思い剥がそうとしてみたが、爪にチョコが入っただけであった。
「だから、完全にチョコなんだよ…ほら、ね」
そう言って彼が差し出して来た茶色い手を見ると、小指がない。
「な…なっ!?」
「イタくないんだよ、困ったことに…」
「…まさか、本当に…?」
「だから、そう言ってるだろ…?」
自分よりも動揺している人間が現れたからかもしれない、成歩堂は少し落ち着きを取り戻したようだった。
異常な状況でも受け入れるしか道はない。
「何か、心当たりは無いのか…」
こんな超常現象に心当たりなどある訳がないと思いながらも、一応そう尋ねてみた。
普通の会話でもしていないと心が保てそうもない。
「解んない…昨日御剣にあげるチョコが完成したから寝て、朝起きたら…」
「チョコ…私に?」
「バレンタインだからね。気合い入れて3日間愛を囁き続けて」
「…愛というか呪わしいぞ…」
「等身大のぼくチョコを」
「……嘘だろう?」
「いや、本気で」
真顔できっぱりと言い切った彼に、御剣は盛大な溜め息を吐いた。この男の考えることはさっぱり解らない。
…しかしそんなことを言っている場合ではない。
ふと成歩堂を見ると、エアコンの温風で溶けて来ているのだ。
彼の顎のラインをチョコレートがドロリと伝い、カーペットに落ちる。
それを目にした御剣は、焦りながらスイッチをOFFにした。
「ば…馬鹿者が!溶けてなくなりたいのか!?」
「うわぁぁ!ちょっ、やだよ!」
大騒ぎしながら台所に出て行った。
安アパートの台所はまるで外のように寒々しく、なんとか溶けてしまうのを阻止できたようだ。
あとを追って御剣も部屋から出て来る。
「……気を付けたまえ」
御剣はそう言って成歩堂に近付くと、いきなり顎を舐め上げた。
溶け出したチョコを舐めとっただけではあるのだが、突然の事に驚いて固まってしまっている彼を横目に、ふむ、と感心したような御剣。
「なかなか美味いぞ、キミは」
安心させようと褒めてみたつもりなのか、そう洩らした御剣。
「…っ」
その言葉と行動に成歩堂は突然、血が逆流してくるような、煮えたぎるような、頭を揺さぶられるような、訳の分からない感覚をおぼえる。
それは性感にも似てはいたが、本能よりももっと突き抜けた何か。身体全体が、脳全体がぐらぐらとする。
そして彼は自分でも驚くような事を口にした。
「ぼくを食べて」
睦言のように、けれどまるで日常会話でもするかのように告げられた非日常な言葉。
御剣は意味が解らないとばかりに瞬きを繰り返したが、彼はチョコレートなのだ。
食べられたいという思いが沸いてきても無理はない。
成歩堂に3日間呪いをかけられたチョコレートならば、間違いなく御剣に食べられることを望むだろう。
けれども目の前にいるのはただのチョコレートではない…魂を入れている器なのだ。
食べられること…それは即ち消滅を意味する。
直ぐにそう頭の中で思い至った御剣は、成歩堂を睨み付けて口調を荒げた。
「馬鹿な、死にたいのか!」
「死にたい訳じゃないよ、食べられたいの」
「同じだろう!」
怒鳴る御剣にスルリと近付き、優しく抱き寄せる。
彼が無機物だからだろうか、驚くほどに静かに。
温度のない恋人を肌に感じて、御剣は一瞬瞳を見開いた後、切なげに瞠目した。
「成…歩堂」
もしかしたらもう、戻る事は出来ないのかもしれないとリアルに感じてしまったのだろうか。
震えながら自分を呼ぶ声の主を抱き締め、その唇をそっと塞ぐ。
「…っ、?」
口付けがいつもと違うだろう事は解っていた、それでも何故か違和感を感じた御剣が瞳を開く。
それは口付けではなく、成歩堂が指先で唇に何かを押し付けて来ている。
何、と尋ねたくても口が開けず、成歩堂を見上げると、彼はにっこり笑って御剣の唇を開かせた。
歯列を割られ、放り込まれた物。
チョコレートだった。
「ん…ッ?」
不思議に思いながら、そのチョコレートを食べた。
それはビターチョコレートで、カカオの華やかな香りを放ちながら口に広がる。
驚くほどに御剣好みの味で、表情が少し緩んだ。
「…これは?」
どこのメーカーの物だという意味で尋ねた彼だったが、返ってきた言葉は皆様お気付きの通り。
「ぼくの小指」
「…なッ!!!」
「さっき舐めてたのに気付かなかったの?」
へらへらと笑いながら、自らの小指があった筈の場所を見せ付ける。
チョコレートとはいえ人の形をした物の小指が根刮ぎ無くなっているのは、気分が良いものではない。
そしてそれは先程から何度も感じていた恐怖の裏付け。
このままいけば彼はいなくなる。
幾ら彼が望もうと、乞おうと…食べてはいけない。
「キミは…ッ、チョコレートではなくて…成歩堂だろう!?」
「…両方だよ。」
やり切れなくなって、説得しようとしているのか苛付きをぶつけているのかも解らない口調で怒鳴った御剣。
柔らかな笑みを浮かべて優しく伝えられた言葉に、瞳を見開くことしか出来なかった。
「ぼくを最期まで、食べて…御剣。」
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